暴支膺懲為支那事變時大日本帝國陸軍的口號。是簡化了“膺懲暴戾支那”的四字熟語,其含義為“懲罰暴虐支那”。
大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンでもある。
也是大本營為了鼓舞國民戰鬥精神而利用的口號。
1937年(昭和12年)の盧溝橋事件および通州事件以降は特に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。同年7月21日には日本革新党が日比谷公会堂で開催した⓵ほか、9月2日に東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「抗日絶滅」や「共匪追討」がスローガンとなっており、政財界・言論界の人物が登壇したという⓶。
1937年(昭和12年)的盧溝橋事件及通州事件以后開始使用,多次舉行了“暴支膺懲國民大會”。同年7月21日日本革新黨在日比谷公會堂舉行過以外,于9月2日在東京府東京市(當時)的芝公園舉行過由對支同志會・貴族院及在鄉軍人會、正財界後援主辦的暴支膺懲國民大會上,“消滅抗日”或“追剿共匪”也成為口號,據說也有政財界・言論界的人物登臺。
対米英開戦後(太平洋戦争中)は「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」となった。
對美英開戰后(大東亞對戰中),把“鬼畜美英”放在了前面,合成為“鬼畜美英、暴支膺懲”。
(昭和十二年(1937)八月十五日 午前一時十分発表した大日本帝国の声明文)
帝国夙に東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を效せること久しきに及べり。然るに南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合(こうがふ)して反日侮日愈々甚しく以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるなし。今次事変の発端も亦此の如き気勢が其の爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許さざる残虐事件の因由亦茲に発す。更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我が居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。
顧みれば事変発生以来屡々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍屡次の挑戦及不法行為に対しても、我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるにも拘らず、南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我方に対し戦備を整へ、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて愈々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向つて砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。
此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり。
此の如きは東洋平和を念願し日支の共存共栄を翹望する帝国として衷心より遺憾とする所なり。然れども帝国の庶幾する所は日支の提携に在り。之が為支那に於ける排外抗日運動を根絶し今次事変の如き不祥事発生の根因を芟除すると共に日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするの外他意なく、固より毫末も領土的意図を有するものにあらず。又支那国民をして抗日に踊らしめつゝある南京政府及国民党の覚醒を促さんとするも、無辜の一般大衆に対しては何等敵意を有するものにあらず且列国権益の尊重には最善の努力を惜まざるべきは言を俟たざる所なり。
「暴支膺懲」
日支戦争初期のスローガン「暴戻支那膺懲」「断乎膺懲」の出所となった昭和12(1937)年の政府の声明。盧溝橋事件(7月7日勃発)を受けての発表だった。
参考文献
- 「兵庫県教育会による「皇軍慰問支那満鮮旅行」に関する研究」宋安寧 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要第2巻第1号 77ページ
出 典
⓵ 『東京朝日新聞』 1937年7月22日朝刊
⓶ 『東京朝日新聞』 1937年9月03日朝刊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E6%94%AF%E8%86%BA%E6%87%B2
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