2019-03-05

張作霖到底是俄羅斯間諜還是日本間諜?(07)

       为了寻求真相,接着看下去吧——那麼請各位讀者大人看一下《怪杰張作霖》這本書的第二章中的相關內容吧。(括號【】中為翻譯的內容。)

第二章 抬頭前の張作霖【抬頭前的張作霖】


第一節 郷村と生立【鄉村和生平】


(一)  遼河畔の麒麟児【遼河畔的麒麟兒】


(二)  騎兵隊の徒卒【騎兵隊的步兵】


 光緒二十年(明治二十七年)張作霖が二十歳の夏、日清の戦争は起った。時宛も遼東の戦に大敗した宋慶の北洋毅軍は総司令部を一時、田荘台に移置して海城方面の日本軍と対峙した。此の秋始めて張作霖が軍界に接近する機会となった。張作霖は自ら志願して兵に応じ、馬隊管帯官(騎兵大隊長)趙得勝の徒卒となって日清の軍に参加した。之れ張作霖が軍人としての第一歩であった。37㌻

       【光緒廿年(明治廿七年,即1894年)張作霖二十歲的夏天,爆發了日清戰爭。時間剛好是在遼東被大敗的宋慶北洋毅軍把司令部一時移設在田壯臺,與海城方面的日本軍隊對峙。這個秋天成為了張作霖第一次接近軍隊的機會。張作霖自己自願加入了軍隊,成為馬隊管帶(騎兵大隊長)趙得勝的步兵,加入了日清戰爭的軍隊中,這是張作霖成為軍人的第一步。37頁】


第二節 遼西緑林時代【遼西綠林時代】


(一)  馬賊の頭目【馬賊的頭目】


 古来、廣寧地方は民気、凶暴殺伐にして獰猛鷲悪なる馬賊の巣窟として聞こえていた。張作霖は愈々遼西及び蒙古の曠野を舞台として起った。遼西馬賊の一頭目董大虎の部下となって諸馬賊と交友し賭博になれ掠奪に熟し彰武県方面に出没し純然たる馬賊とった。張景恵も張作相も当時行動を共にした同僚である。張作霖と此の二張との関係は最も密接で義兄弟の盟約を結んだ間柄である。年齢順に景恵、作霖、作相と定め張作霖は張景恵を呼ぶに「我大哥」、作相を「我三弟」と称している。加之に同郷同村の出、所謂竹馬の友とも称すべく現に景恵は臺安、作相は義縣に籍を置くも各自海城より移籍したのである。

     【自古以來,廣寧地區的民風兇暴野蠻、作為猙獰凶惡的馬賊巢穴聞名。張作霖以遼西及蒙古的曠野為舞臺開始起航。成為遼西一馬賊頭目董大虎部下的張作霖,現其他馬賊交友賭博掠奪,出沒于彰武縣方面,變成了純正的馬賊。張景惠、張作相也是當時和張作霖一起行動的同僚。張作霖與此二張關係最為密切,是結拜兄弟的關係。按年齡順序排下來為景惠、作霖、作相,張作霖管張景惠叫“我大哥”,管張作相中“我三弟”。再加上同鄉同村出來的可稱是所謂青梅竹馬的朋友,雖然現在張景惠在臺安,張作相的籍在義縣,但都是從海城移籍過去的。】


    斯くて一方の頭目となった張作霖は光緒二十年の団匪の乱には根拠を廣寧県の中安堡に構へ部下三十四名を率いていた。陽に官憲より中安堡の團練長なる事を黙認されて地方治安の維持に當った。そして陰に新民府方面に出没して随所に掠奪を肆行し勢力を張っていた。此の頃、或る一夜、新民府下の某村に富豪として聞ゆる陳、趙の襲ひ趙家に於いて一美人を奪って自ら妻した。之れ張作霖の第一夫人である。趙家は付近に於ける有数の名望家であったので趙家の女を妻とした張作霖の聲輿と信望とは同地方の土民間に高り勢力を加へた。如何にも其の行動が三国誌的で支那式である。此の趙夫人が生んだ長子が即ち張学良である、鮑貴卿長子の張英麟に婚嫁した長女も趙夫人の腹であった。39~40

      【就這樣成為一方頭目的張作霖,在光緒廿年的團匪之亂(義和團之亂)時,把根據地設置在廣寧縣的中安堡,率領的手下有三十四名。表面上是被官方默認的中安堡的團練長負責維持地方治安,然而背面是出沒于新民府方面隨處大肆掠奪擴充著勢力。此時,有一天夜里,打劫了新民府下的某村富豪陳氏和趙氏,在趙家搶了一美人做壓寨夫人。這人就是張作霖的第一夫人。因趙家是附近為數不多的有聲望的家族,因此把趙家的女兒變成妻子的張作霖的聲譽和信譽隨之上漲,勢力得到了加強。其行動怎麼看都是三國志的風格和支那的風格。這位趙夫人生下的長子就是張學良,嫁給鮑貴卿長子張英麟的長女趙夫人所生。】 39頁~40頁



(二)  張作霖と金壽山【張作霖與金壽山】


 光緒二十六年(明治三十三年)團匪事件の終息以来、満洲は露国の勢力圏内に入った。支那政府の政令行はれず、匪賊四方に勃起して跳梁跋扈を極めた。

      【光緒二十六年(明治三十三年)的團匪事件(義和團之亂)終結以來,支那政府的政令不通,匪賊四方蜂起,極盡跳樑跋扈之事。】


 當時露国の極東政策は満州を併呑すべく著々增兵に努め、排露主義の馬賊を懐柔又は駆逐する目的の下に之れが実行に努めていた。親露派の帰順馬賊金壽山を手先に使って馬賊招降に着手せしめた。金壽山は天津武備堂の出身にて鄭家屯を根拠に満洲緑林に活躍していたのだ。前に排露派馬賊の頭目である俠豪馮徳麟を捕縛し、樺太島に配謫した露国軍の眼は當時漸く擡頭して来た張作霖に向って注がれた。張作霖を露国側に引入れる使命は金壽山に下った。金壽山が投降勧説使として張作霖と会見するや張作霖は「自分が露軍に参加すると否とは勝手である。何も貴様の労を借るの必要はない」と高飛車に拒絶したそうだ。そこで金壽山は大いに憤慨し、張作霖を誅せんとて部下の兵約一個中隊と露国兵一個中隊を引率して長躯、廣寧を襲ふた。張作霖が油断している隙に乗じて突如、中安堡の根拠地に殺到した。急を聞いた張作霖は危険の迫れるを予感した。此の際一応中安堡を退去し遼中県八角臺の張景恵の許に投ずるに決した。まず心腹の部下に旨を銜(くく)めて趙夫人を扶け避難せしめた。自己は又、部下七名と共に間道を選んで東に落ち延び鎮安県姜家屯に辿り着いた。そして同地の馬賊頭目にして馮徳麟の排露軍に加担した洪福臣、陳蔭棠等に会見し事情を説いて援を求めた。洪陳等に贈るに彼等が未見の珍品である拳銃を以てし懇請したのであった、洪、陳、等は共に排露派として金壽山の所為を憎み張作霖の窮状に同情し馬八頭及び歩兵銃八挺を贈った。此処で張作霖の主従八名は金壽山の腹心徐海樓の追撃を避けて八角臺に到着し張景恵の兵と合したのだ。40~41
      【當時俄羅斯的遠東政策是為了吞併滿洲,以懷柔排俄主義馬賊或是驅逐為目的的前提下,努力實施按步就班增兵。利用親俄派的投降馬賊金壽山為幫手,開始招降馬賊。金壽山是天津武備堂出身,以鄭家屯為據點活躍在滿洲的綠林。在前面敘述的抓捕排俄派馬賊頭目豪俠馮德麟發配到樺太島的俄羅斯軍隊的目光,開始集中到了當時漸漸抬頭的張作霖身上。把張作霖拉入俄羅斯一側的任務下到了金壽山的身上。金壽山作為投降勸說使與張作霖會面,張作霖說:“我自己參不參加俄羅斯軍隊是我的自由,沒有任何必要煩勞你。”張作霖傲慢不遜地拒絕了。因此金壽山非常生氣,認為不誅殺張作霖不行,所以率領部下約一個中隊和俄羅斯兵一個中隊,長驅直入襲擊了廣寧。沉着張作霖疏忽的間隙突然殺到了中安堡的據點,聽到緊急情況的張作霖預感到了危險的迫近,此時張作霖決定暫時撤退投奔到遼中縣八角臺的張景惠處。首先說服了心腹部下攜趙夫人避難。自己又和七名部下一起選小路向東逃竄到達鎮安縣姜家屯。然後在當地與作為馬賊的頭目加入馮德麟排俄軍的洪福臣、陳會棠等,說明情況并求援。懇請的時候向洪陳等贈送了他們從來都沒有見過的珍貴的手槍。洪、陳等作為排俄派都憎恨金壽山的所為,同情張作霖的窘狀,贈送了張作霖八匹馬和步兵槍八挺。在此處張作霖的主從八人躲避了金壽山心腹徐海樓的追擊,達到八角臺與張景惠兵合一處。】40頁~41頁


(三)  張景恵と湯玉麟【張景惠和湯玉麟】


 張作霖の主従は張景恵の部下六十名と合し八角臺(臺安縣)を中心に付近の部落に出没して勢力を扶植するに務めていた。其後同地方に於て無双の勢力を有する囘々教の馬賊頭目項昭子の縄張範囲を侵害したことで項昭子の怒を買ひ衝突した。張作霖の一隊は僅かに七十名足らずの小勢を以て優勢なる項の軍と対峙したのである。衆寡敵し難くして張作霖の軍は不利の立場に陥った。當時鎮安県紅螺山に根城を据い一方の勢力を張っていた馬賊頭目湯玉麟の許に急使を送って救援を乞ふた。湯玉麟は一諾直に四五十の援兵を八角臺に急派したので形勢は逆転し張作霖の軍優勢となり項軍を撃破した。遂に項昭子及び其の腹心八名を斬り其の部下の投降する者三十余名を収めて部下に加へた。張作霖が馬賊としての初陣に大勝利を占めたのは後年栄達の第一歩であった。張景恵、湯玉麟の功勲も高く一面、張作霖に取りて得難き恩人であった。項昭子を撃破した張作霖の威望は項の勢力の偉大なりしだけ、より以上に忽ちの間に四隣を震撼し麾下に投じ来る者相次で盛名愈々揚ったのである。

      【張作霖的主從與張景惠的部下六十名會和,以八角臺為中心,出沒于附近的部落,努力培植勢力。之後在相同的地方與有絕對勢力的回回教馬賊頭目項昭子因被指侵犯其勢力範圍與發生了衝突。張作霖一伙以僅不足七十人的小勢力與具有優勢的項的軍隊對峙。敵眾我寡張作霖的軍隊陷入了不利的境地,急忙派遣使者向當時以鎮安縣紅螺山為據點擴充一方勢力的馬賊頭目湯玉麟乞求救援。湯玉麟允諾立刻派四、五十援兵至八角臺,形勢逆轉,張作霖的軍隊佔據優勢擊破了項昭子的軍隊。最后斬殺了項昭子及其八名心腹,把投降的項昭子的部下三十多人編入成為手下。張作霖作為馬賊打勝第一仗是其後年榮光發達的第一步。不僅張景惠、湯玉麟的功高,而且對對張作霖來說是難得的恩人。消滅了項昭子的張作霖的威望因項昭子的勢力巨大而轉瞬之間震撼四鄰,投奔其麾下的絡繹不絕,威名逐漸擴大。】


 張作霖と湯玉麟の関係は此の時に胚胎し、張作霖は深く湯玉麟の援護を徳とし一種の攻守同盟を結んだ。張作霖は八角臺を根拠として張景恵と相扶け、湯玉麟は鎮安県(後に黒山縣と改む)桑林子(八角臺の西三十五支里)に盤踞し、張、湯両者の部下は合して約二百餘、同地方に威力を振ひ群小馬賊を圧倒するに至った。張作霖と湯玉麟は肝胆相照すの仲となった。張作霖は一日、湯玉麟と共に旗亭で會飲し、「今日の時局は満州、殆ど無政府の状態にあり余等は一地方の馬賊として満足するの秋ではない、各地の群小馬賊を合し打って一丸となし強大たる勢力を形成して満洲に覇を唱ふべきである」と力説し、湯玉麟も亦、之れに和し「余も又此の意見である」と賛同し張、湯、両者の意気投合し其の提携は膠漆啻ならざる関係となった。張作霖は機会あらば相当有利の条件を附して官軍に帰順し第二の活動を開始せんとするの意漸く動いていた。 42~43

【張作霖和湯玉麟的關係從此時開始孕育,張作霖深感湯玉麟的援救之德,結成了一種攻守同盟。張作霖以八角臺為據點與張景惠相互幫助,湯玉麟盤踞在鎮安縣(之後改為黑山縣)桑林子(八角臺以西三十五支里),張、湯兩者的部下和起來約兩百多人,威震該地方直至壓倒其他小群馬賊。張作霖和湯玉麟變成了肝膽相照的關係。有一天張作霖和湯玉霖在旗亭同飲,張作霖極力主張,說:今日時局下的滿洲,幾乎是無政府狀態,我等不是作為一方馬賊而滿足之秋,應集合小群馬賊成為一體,形成強大的勢力,稱霸滿洲。湯玉麟也與之唱合贊同,說:我意亦如此。張湯兩人從此意氣相投,其合作成為如膠似漆的關係。張作霖终于打起了只要有機會以相當有利的條件歸順官軍开始第二个活动的主意。】


(四)  張作霖の帰順【张作霖的归顺】


  光緒二十九年春(明治三十六年)時の新民府知府であった增韞(後に浙江省巡撫に転任)は匪賊四方に割拠し地方騒然たるを憂ひ馬賊懐柔を企図し招降の宣撫使を先づ張作霖の許に派遣した。新民府巡警局長の王奉廷(後に北京陸軍部参謀に任ず)と宋玉亭の両名が其の任に當り部下の巡警若干を率い八角臺に赴き張作霖と会見して增知府の意を傳へ帰順を勧説慫慂したのである。張作霖は既に馬賊として永久に立つを得ないことを覚っていた。天下に覇を唱ふるためにも大勢に逆行しては何事も不可能な事由を明察していた。一大抱負を懐いていた際とて帰順の意、愈々動いた。剛復なる張景恵が帰順に反対したにも係はらず張作霖は断然決意して王、宋等の勧説を容れて帰順する事を承諾した。唯だ其の帰順に就いて張作霖は「一部隊の隊長になって地方の治安に任ずべし」との条件を出したのだ。王、宋勧降使に對し赤裸々に自己の兵力(部下、銃器、馬匹等)の一切を開放して他意無きを明示した。そして王、宋等が張作霖の帰順条件を得て帰った後に年来、根拠として相当の地盤を築ける八角臺の紳商趙墨麟、戴伸融及び学紳張子雲等三名を動かし、趙等をして增知府に對し「張作霖は充分地方治安の任に勝ふべき」旨を推薦せしめて運動大いに努め增知府の諒解を得たのである。

      【光緒二十九年春(明治三十六年),時任新民府知府的增韞(之後轉任浙江省巡撫)擔憂匪賊割據四方騷擾地方,企圖懷柔馬賊,先派遣了招降宣撫使至張作霖處。讓新民府巡警局長王奉廷(後來轉任北京陸軍部參謀)和宋玉亭兩人擔當此任,率領部下巡警若干名赴八角臺與張作霖見面,轉達增知府的意向勸說并慫恿歸順。張作霖早就覺得不可能永遠做馬賊,明察若想稱霸天下不能背逆天下大勢一事無成的道理。恰好是抱有一大抱負的時候,張作霖的歸順之意萌動了。張作霖不顾强势的張景惠的反對果断决心决定歸順,聽取了王、宋的勸說,承諾了歸順的事情。但張作霖作為唯一歸順的條件,提出了“要一個部隊的隊長管理地方的治安。”的條件。對王、宋勸降使毫無保留地開放了自己的所有兵力(部下、槍械、馬匹等),明確表示了絕無他意。之後王、宋等拿著張作霖的歸順條件返回后,動用多年來作為靠山幫著築起相當地盤的八角臺的紳商趙墨麟、戴伸融及學紳張子雲等三人,趙等三人發動增知府推薦“張作霖足夠勝任管理地方治安”之意的運動,獲得了增知府的諒解。】


 同年夏張作霖は部下の馬賊を率いて新民屯に北上し来り增知府と会見した。其の会見において張作霖の主張は增知府の容る容る所となった。部下を改編して騎兵一営を編制し新民屯に駐在さするに決定したのであった。当時張作霖の兵力は僅かに二百名内外であった。部下の馬賊兵百五十名、帰順の途来投した者三十名、新民屯駐屯の士兵一哨五十名を合し総数二百三十名にして騎兵一営(二百五十名)にも満たなかった。それを後更に三十名淘汰して残部二百名を以て精鋭なる騎兵の一営を編成し張作霖、管帯官として之を統率し湯玉麟を第一哨長に任命した。斯くて張作霖は緑林より転じて清国政府の一武人となって新民府に移駐し地方治安の任に就いた。之れ張作霖が二十九歳の秋である。前後八年に亘る遼西緑林の生活は愈々終を告げた。43~44㌻ 

      【同年夏天,張作霖率領部下北上至新民府與增知府見面,在會面中增知府容忍採納了張作霖的主張。決定改編部下為騎兵一營編制駐紮新民府。當時,張作霖的兵力僅為兩百人左右,部下有馬賊兵一百五十名、歸順路上來投靠的三十名、加上駐紮在新民屯的士兵一哨五十名,總數為兩百三十名,還達不到騎兵一營(兩百五十人)的編制。之後再淘汰掉三十人,以剩下的兩百名編成了精銳騎兵一營的張作霖,作為管帶統率,任命湯玉麟為第一哨長。就這樣張作霖從綠林轉身成為大清帝國政府的一介武人,移駐新民府任地方治安的管理。這是張作霖二十九歲時候的秋天,前後八年的遼西綠林生活終告結束。】43頁~44頁

       從上述的內容中可以得出這樣的結論,張作霖歸順大清帝國的時間為光緒廿九年(明治三十六年)的秋天、即1903年的秋天。

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